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坂井 基浩のホームページ!

「商人とは、経営者とは」第3回

流通戦国時代に
守り抜いた「純血主義」

昭和40年代から50年代にかけて、日本の流通業界は歴史上、
かつて経験したことのない高揚期を迎えていた。沸騰期と言える
かもしれない。

入道雲が沸き立つようにチェーン店が台頭し、「先に版図を広げた方
が勝ち」の気分が横溢した時代だった。チェーン業界を中心に、流通
業界の地図は塗り代わり塗り代わりして、マスコミは「流通戦国時代」
とはやし立てた。

流通戦国時代は言い換えれば、「規模こそがすべて」という思想が
流通業界を覆った時代である。他社よりも早く大きくなった方が勝ち、
他社よりも早く地域を押さえた方が勝ちだった。大手は競って中堅
企業を傘下に収めようと、陣取り合戦に狂奔した。

地方の中堅スーパーの側も壁にぶつかっていた。あるところまでは
成長できても、その先へ進もうとすれば、資金力、後継者、社内の
人材など、多くの点で不安があった。成長力があって、自分の企業の
独自性を認めてくれるところを提携相手に探す空気もあった。

規模を重視する考えが充満した流通業界では、多くの企業で、ぶれ
てはならない二つの軸がずれてしまったのではないか。一つは、
顧客を見据えて、顧客の目線ですべてを発想しなければならないのに、
他社と比較するところから物事を考えたことである。

売り上げ順位を争い、「全国制覇」という言葉に惑わされ、新しい
流通業を築き上げるという名目で、顧客を忘れた自分勝手な理屈を
打ち上げた。今にして思えば、業界内の競争にもっぱら目が向いて
いたのである。

第2に、「質」より「量」を重視し過ぎたため、両者のバランスが
崩れたことである。拡大を追い求め、社内体制の整備や従業員教育を
置き去りにして、前へ前へと突っ走った。後に多くの大手流通業者が
行き詰まる遠因は、ここにもあったのではないかと思う。

その流通戦国時代に伊藤は、じっと動かなかった。自ら連携や買収に
乗り出したことは一度もない。その時代にあっては特異とさえ言える
企業姿勢である。提携・買収で勢力を一気に伸ばせるだけの力を、
イトーヨーカ堂は持っていた。動かなかったのは、伊藤の強固な哲学、
信念による。

伊藤には、「自分の会社を乗っ取られるのは嫌だし、人の会社を乗っ
取るのも嫌だ」という素朴な思いがあった。伊藤の人生観そのものと
言っていい考えだから、企業同士の戦いのためとは言え、使う気の
しない手段だった。

「拡大を急げば
理念が薄まる」

もう一つ、伊藤にブレーキを掛ける要因があった。かつて兄の譲に
教え諭された、「開店の時の熱い思いをいつまでも忘れるな」という
言葉である。伊藤にとってそれは、個人として胸に刻み込んだ教訓で
あると同時に、すべての社員、企業全体としても厳しく守らなければ
ならない哲学だった。

「他社を吸収して拡大を急げば、最も大切にしている企業としての
思いが薄まってしまうのではないか」

企業理念が薄まってしまうという発想は情緒的だが、いかにも伊藤
らしく人間的だ。伊藤の経営判断はいつも、人間の生き方として
正しいかどうかを起点にしている。伊藤ほど自身の人生観と経営戦略
にずれのない経営者は珍しい。収益を上げるためには別の考え方を
取る、といった二つの物差しを使い分けることは決してしない。

不器用な生き方だが、だからこそイトーヨーカ堂の経営哲学は揺るが
なかったし、そこから生まれる経営戦略は正しい方向に向かい、勝ち
残ってきた。

昭和44(1969)年、スーパー業界に共同仕入れ会社「ナルサ」
が生まれ、伊藤が社長に就任した。イトーヨーカ堂が初めて他社と
手を組んだ事業である。大量仕入れにより、安く商品を買い付ける
バイイングパワーを持つという「スーパー理論」に基づいていた。
当時、業界には多くの共同仕入れ組織が誕生した。だが、実際に運営
してみると理論通りに事は運ばなかった。

共同で仕入れた以上、メンバー各社には売りさばく義務が生じる。
売りたい商品は各々微妙に違ってくるし、売れ残った時にどう処理
するかという難問も出る。メンバー間の競合も次第に表面化してくる。
いい知恵のようで、実際には運営が極めて難しかった。共同仕入れ
組織はたくさん生まれたが、成功したと言えるものはない。

「ナルサ」はそんな内部矛盾が表面化する前に崩壊した。メンバーの
一社が破綻し、その仕入れ代金を「ナルサ」が被ることになって
しまったからだ。

伊藤が音頭を取って作った親織ではない。伊藤には元々「共同で」と
いう思考はない。責任を重視する伊藤は「群れる」ことを嫌う。
社長に担ぎ上げられたのである。しかし、伊藤は黙って「ナルサ」の
負債3億円を引き受けた。イトーヨーカ堂の1年分の利益に相当する
金額だった。苦しい決断だったに違いない。この話をする時、伊藤は
今でも砂をかんだような顔をする。

この高い授業料が、提携・合併への態度を一層慎重にさせた側面は
あるだろう。他の大手が陣取り合戦に走る中で、伊藤は自前で着実に
前進する戦略を崩さなかった。

“群れ”を嫌えばこそ
高まる信頼

話は向こうから持ち込まれた。覇を競わない伊藤の態度は、中堅スーパー
経営者の信頼を集めた。「条件は一切付けない。イトーヨーカ堂の
思い通りにしていただいて結構だから、提携して欲しい」という話が
舞い込む。伊藤は渋る。何度も頼み込まれて断り切れず、ついに
引き受ける。そんな形で提携した第1号が、昭和48年の紅丸商事
(福島県、店名べニマル)である。

紅丸商事の創業者、大高善雄は新聞記者から小売業に転じた変り種で、
消費者のための小売業のあり方を追求した、極めて理想主義的な
経営者だった。夫婦で引き売りの行商から始め、店を持ってからも
社員に顧客への徹底的な奉仕を説いた。その接客ぶりに感動した顧客
から、何通もの礼状が届いたというエピソードが残っている。

往時のベニマルの記録を読むと、伊藤によく似た心情を持った商人の
姿が浮かび上がってくる。独力では成長に限界があり、生き残れる
保証もないと思った大高が、伊藤に将来を託す気になったのは頷ける
話である。

イトーヨーカ堂と業務提携した後、紅丸商事はヨークベニマルと
社名を変えた。資本関係を持たない、いわば信義による結び付き
である。伊藤にはもちろん、ベニマルを手中にするつもりはない。
その主体性を尊重しながら成長に手を貸してきた。戦国時代の流通
業界にあっては珍しいことだった。大手と中堅が提携する一つの
理想形ということで、「ベニマル方式」と呼ばれた。大高は没した
が、ヨークベニマルの現在の姿を見れば、その判断に誤りはなかった
と言っていい。

昭和48年から58年の間に、イトーヨーカ堂は9件の業務提携を
した。すべてが今も続いているわけではない。相手が解消を希望
すれば追わずに応じ、今も残っているのは5件である。相手を呑み
込む形で合併した例は1件もない。イトーヨーカ堂は全国展開を
急いだ大手チェーンストア業界では、異色の「純血主義」の企業
なのである。

ずるのできない人
ずるに走らぬ会社

ここから伊藤の経営者としてのいくつかの特質が見えてくる。1つは、
独立独歩王義だ。人を当てにせず、自分の責任で、営々と努力し続け、
地道に実績を重ねてゆく。珍しい考え方ではない。ついこの間まで、
日本人の多くが持っていた人生観である。伊藤はそれを厳しく、愚直
に貫いた。

伊藤は役所を頼ったり、団体を組織して数の力で押し切ったりするの
を好まない。イトーヨーカ堂は大手にしては珍しく、役所のOBを
受け入れたことがない。自身、チェーンストア協会の会長なども
務めるが、周囲に説得され、しぶしぶ引き受けたものばかりだ。

第2は、誠実で潔白な人柄を、そのまま企業経営に反映させてきた
こと。伊藤はずるいことのできない人間で、イトーヨーカ堂はずるい
振る舞いをしない企業である。社長の人格が企業の風格につながる
のはオーナー経営の特徴でもあろうが、伊藤の場合は顕著だ。

第3は、他社との競争意識、比較意識が希薄なことである。売り上げ
競争に走らなかった。新しい小売業の姿を描いて、キャッチフレーズ
を付けるようなこともしなかった。だから、新聞のニュースになる
機会も少なかった。それであせるなどということはない。ひたすら
お客を見つめ続けていた。

イトーヨーカ堂の軌跡をたどると、伊藤の平凡ではあるが、並みでは
ない「信念経営」に行き当たる。反骨とも言える強靭な精神は筋金
入りだ。

イトーヨーカ堂の「純血主義」は次のトップ、鈴木敏文(現会長)に
引き継がれた。鈴木は「他社を吸収するのは、後から経営理念や
日常業務への取り組みを叩き込む手間を考えると、効率が悪い」と、
もっぱら「効率」の観点から「純血主義」を維持する。伊藤と鈴木は
全く違う資質を持ちながら、いつも結論が同じになるところが面白い。
それは顧客を見つめる根本姿勢が同じであることに起因するのだろう。

「純血主義には弱さを内包する側面もある」と伊藤は考える。しかし、
商人としての熱い思いが「薄まる」ことがあってはならない。伊藤が
今も身を焦がすように考え続けているのは、どうすれば若い社員達に
自分の思いを「薄めずに」伝えていけるか、なのである。
(文中敬称略)

日経ベンチャー2003年12月号より


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